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代々木公園が開園(東京都渋谷区) 1967年10月20日

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写真: 代々木公園が開園(東京都渋谷区) 1967年10月20日

公園になる以前は、1964年(昭和39年)の東京オリンピックの際に代々木選手村として、
その敷地の一部が使用された事もある。
オリンピック終了後に再整備を行い、1967年(昭和42年)に代々木公園として開園した。

元々、この一帯は江戸時代に大名や旗本らの下屋敷などが点在していた場所で、明治維新後、
民有地となっていた。一面の茶畑・桑畑は、陸軍省によって買収が進み1909年(明治42年)
7月、この地に陸軍練兵場と衛戍監獄(陸軍刑務所)が設置された。
この陸軍刑務所では、1936年(昭和11年)2月に起きた、二・二六事件主謀者15名の死刑
(銃殺)が、同年11月に執行されている。

大日本帝国陸軍の練兵場は敗戦前までこの地にあったが、敗戦後の1945年(昭和20年)12月、
日本占領軍である連合国軍に接収され、兵舎や家族用居住宿舎(ワシントンハイツ)となった。
その建設は、占領アメリカ軍の要求によって日本政府の責任と負担に基づいて行われている。
アメリカ軍による東京大空襲で廃墟と化した東京都心に建設された「ワシントンハイツ」。
その周囲は塀で囲われ、日本人の立ち入りは禁じられていた。塀の中には827戸の住宅、学校、
教会、劇場、商店、将校クラブなどが設けられていたと云う。

1952年(昭和27年)4月:サンフランシスコ講和条約以降も、アメリカ軍は“在日米軍”として駐留。
1952年(昭和27年)7月:日米安保条約に基づく無期限使用施設の指定
1960年(昭和35年)6月:日米両国間の相互協力及び安全保障条約(現行日米安保)

日米地位協定により治外法権的存在で、アメリカ軍用地・住宅地として東京都心に存在し続けた
ワシントンハイツも、1961年(昭和36年)に、その3年後の東京オリンピックで選手村・競技場
用地として利用することが決定し、ようやく日本国に全面返還されることになった。

1964年(昭和39年)8月12日、東京オリンピックが開催されたこの年、
「ワシントンハイツ」の返還・移転は完了している。




写真は、
渋谷区西原の高級住宅街で、最寄駅は小田急線「代々木上原」。
特に代々木公園との関係が深い訳ではないが、ご近所を撮った蔵出し写真から。
西原は、代々木公園から首都高を挟んで真西に位置する。

今年の夏は、代々木公園内に生息しているとみられる蚊に刺された人がデング熱に感染する
事件があり、一時期この公園は立ち入り禁止にされる騒動があった。
近所の住民にとっては不安な夏だったと思うが、季節も変わり、騒ぎは収束した様子。

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コメント (2)

  • きしめん 百八

    代々木と聞くと、今だに「選手村」のイメージがあります。

    2014年10月20日 08:49 きしめん 百八 (5)

  • 熊野牟 秀太

    残念ながら、オリンピックや競技に関する記憶は無いのです。(当時2歳)
    「代々木」と「オリンピックが」結び付いたのも、かなり大人になってから
    だった様に思います。

    ただ、伯母の家にあったオリンピックの入場行進シーンが
    ジャケットになったLPの「東京オリンピックマーチ」が大好きで
    数年後に、繰り返し繰り返し聴いていた記憶はあるのです。

    2014年10月20日 17:22 熊野牟 秀太 (16)

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