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帝銀事件の初公判。自白を翻し全面否認 1948年12月20日

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写真: 帝銀事件の初公判。自白を翻し全面否認 1948年12月20日

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【帝銀事件】
1948年(昭和23年)1月26日に東京都豊島区長崎にあった帝国銀行(現在の三井住友銀行)椎名町支店(1950年、統合閉鎖により現存せず)で発生した毒物殺人事件。

この事件では、日本のテンペラ画家である平沢貞通が犯人として逮捕され死刑が確定する。
しかし、刑の執行も釈放もされないまま、1987年(昭和62年)5月10日)に獄中で病死。
平沢は、逮捕から死までの39年間を獄中で過ごしていた。

戦後の混乱期、GHQの占領下で起きた事件であり、未だに多くの謎が解明されていない。
また、現在でも「冤罪事件」の報道があるたびに、「帝銀事件」「平沢貞通」の名を耳にする事も多い。

また、GHQによるフレームアップとして語られることもある。


【事件の発生】
1948年1月26日、銀行の閉店直後の午後3時すぎ、東京都防疫班の白腕章を着用した中年男性が、厚生省技官の名刺を差し出して、「近くの家で集団赤痢が発生した。GHQが行内を消毒する前に予防薬を飲んでもらいたい」
「感染者の1人がこの銀行に来ている」と偽り、行員と用務員一家の合計16人に青酸化合物を飲ませ、12人を死亡させた。
犯人は現金16万円と、小切手、額面1万7450円(現在の価値では数百万円相当)を奪い逃走、小切手は事件発生の翌日に現金化されていた。

犯人は薬を全員に飲ませることが出来るように遅効性の薬品を使用した。また、薬の飲み方の手本として、先ず自分が最初に飲んで見せることで被害者を信用させた。

さらには、「歯のエナメル質を痛めるから舌を出して飲むように」と伝え、確実に嚥下させたり、第一薬と第二薬の2回に分けて飲ませるなど、巧みな手口を用いて実行に及んでいる。

16人全員が、ほぼ同時に第一薬を飲む。ウィスキーを一気に飲んだような、胸が焼けるような感覚が襲う。約1分後、第二薬を渡され、苦しい思いをしていた16人はそれを競うように飲んだ。
その後、一人の女性が失神を繰り返しながらも外へ出たことから事件が発覚した。


【類似する未遂事件】
安田銀行荏原支店:1947年(昭和22年)10月14日の閉店直後、『厚生技官 医学博士 松井蔚厚生省予防局』という名刺を出した男性が現れる。

三菱銀行中井支店 1948年(昭和23年)1月19日の閉店直後、『厚生省技官 医学博士 山口二郎 東京都防疫課』という名刺を出した男性が現れる。

その後、帝銀事件と同様の犯行に及ぼうとするが、二件とも未遂に終わっていた。
なお、『厚生技官 医学博士 松井蔚 厚生省予防局』の名刺は本物であり、『厚生省技官医学博士 山口二郎 東京都防疫課』は、同名の技官も実在せず、名刺も偽物だった。


【捜査の過程で】
遺体から青酸化合物が検出されたことから、その扱いを熟知した、旧陸軍731部隊関係者を中心に捜査され、事件の発生から半年後の6月25日、刑事部長から捜査方針の一部を軍の関係者に移すという指示が出て、陸軍関係の特殊任務関与者に的を絞るも、突如GHQから旧陸軍関係への捜査中止が命じられている。


【平沢貞通を逮捕】
8月21日、松井と名刺交換した人物の一人である、平沢貞通を北海道小樽市で逮捕した。


【平沢を逮捕した理由】
?平沢は、「松井蔚の名刺」を交換した人物の一人であった。
?平沢は、『事件発生時刻は現場付近を歩いていた』と供述している。
?平沢は、過去に銀行で詐欺事件を起こしている。
?平沢は、事件直後に被害総額とほぼ同額を預金しているが、その出所を明らかにしない。

しかし、

?平沢は、その名刺を持っていなかった。(財布ごと盗まれたとして盗難届を出していた)
?その供述を裏付ける証明がない。
?この現金については、当時画家として名が売れていた者としては不名誉な副業(春画作成)
 などで得たものなので、明確にしかったのでは?と、作家の松本清張らは推測をしている。
 ただし、これは本人が否定している。


【捜査と裁判】
警視庁は平沢を被害者に面通ししたが、この男だと断言した者は一人もいなかったという。
逮捕当初、平沢は一貫して容疑を否認、しかし拷問に近い平塚八兵衛の取り調べの末、逮捕から1か月後の9月23日から自供を始め、10月12日に帝銀事件と、他の2銀行の未遂類似事件による強盗殺人と強盗殺人未遂で起訴された。

12月20日より東京地裁で開かれた初公判において、平沢は自白を翻し、無罪を主張するが・・



1950年(昭和25年)7月24日、東京地裁で一審死刑判決。
1951年(昭和26年)9月29日、東京高裁で控訴棄却。
1955年(昭和30年)4月7日、最高裁で上告棄却、5月7日、死刑が確定した。





写真は、豊島区長崎にある「長崎不動尊」

http://photozou.jp/photo/show/2506004/178915704

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