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仲見世(浅草)を煉瓦造りに建て替え 1885年12月27日

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写真: 仲見世(浅草)を煉瓦造りに建て替え 1885年12月27日

写真: ドレフュス大尉の恩赦法案が可決 1900年12月28日 写真: リア王の初演 1606年12月26日

【浅草寺の草創の由来】
推古天皇36年(628年)、現在の隅田川で漁をしていた兄弟の網に仏像が掛かった。
この仏像が、浅草寺の本尊(聖観音像)となり、この像を拝した兄弟の主人は出家し、自宅を寺に改めて供養した。これが浅草寺の始まりと云われている。その後、大化元年(645年)勝海上人が寺を整備した際に、観音の夢告によって本尊を秘仏と定めている。

平安時代初期、延暦寺の僧・円仁(慈覚大師)が来寺し、秘仏として実体の明らかでない像に代わって、人々が拝める観音像(お前立ち)を造った。
これらを機に、浅草寺では勝海を「開基」、円仁を「中興開山」と称している。

天慶5年(942年)、安房守平公雅が武蔵守に任ぜられた際に七堂伽藍を整備したとの伝えがあり、雷門、仁王門(現・宝蔵門)などは、この時の創建といわれる。


【仲見世の生い立ち】
徳川家康が江戸幕府を開き、江戸の人口も増えていくと、浅草寺への参拝客も一層の賑わいをみせていく。そして浅草寺境内の掃除の賦役を課せられていた近くの人々に対して、境内や参道上に出店営業の特権が与えられ、これが「仲見世」の始まりとなった。
江戸時代には、伝法院から仁王門寄りの店を役店(やくだな)と呼ぶ、20件の水茶屋が並び、雷門寄りは平店(ひらみせ)と呼び、玩具、菓子、土産品等を売って繁盛し店も増えていく。
江戸時代中期には、境内西側奥の通称「奥山」と呼ばれる区域で大道芸なども行われ、境内は庶民の娯楽の場となって、日本で最も形の整った門前町へと発展した。

いつごろから正式に「仲見世」と呼ばれるようになったのかは、調べがつかなかった。


【明治政府による取り払い】
明治維新の政変により寺社の所領が政府に没収、浅草寺の境内も東京府の管轄となった。
政府は新しく東京に5公園を作り、公園法を制定。仲見世は一切の特権を取り上げられる。
明治18(1885)年5月、東京府は仲見世全店の取払いを命ずる。泣く泣く全店が退店するも

同年12月27日、赤煉瓦造りの洋風豊かな新店舗が完成し、近代の「仲見世」が誕生した。


【大正以後の仲見世】
大正12年の関東大震災により壊滅、仲見世は同14年に現在の鉄筋コンクリート造り、桃山風朱塗りの堂々たる商店街に生まれ変わった。
しかし、昭和20年の戦災で内部は全部焼失。これも、仲見世の人々の努力により、いち早く復興させている。


【現代の仲見世】
昭和60年秋、近代仲見世誕生100周年を記念し電飾看板の改修、参道敷石の取替工事を完了。
平成元年4月、東京芸術大学平山郁夫教授指導のもと、「浅草絵巻」と題し全店のシャッターに浅草の歳事を描く装飾が行われる。
平成4年11月、建物の塗替えや看板類の改修工事「リフレッシュ事業」の完成。
平成6年10月、「電柱撤去地中線化」を完成。これにより、スッキリとした仲見世になった。





写真は、現在の「仲見世」
雷門と宝蔵門の間には、東側に54店、西側に35店、合計89店の店舗があり、近くの押上には東京スカイツリーも完成。
長さ約250メートルの参道には、海外からの観光客の姿も多く目にする。

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コメント (2)

  • きしめん 百八

    ここを歩くと「ああ東京へ来ているんだな」と実感する。東海道新幹線開通の翌年だったかに家族で新幹線に乗り東京のはとバスに乗って以来、何度も来ている場所。
    看板撮影という意味では近くの河童さんの道具街のほうが面白い。

    2014年12月27日 20:19 きしめん 百八 (5)

  • 熊野牟 秀太

    この街は「江戸」の象徴のような気がします。
    スカイツリー効果で、これからもますます観光客を増やすでしょうね。

    自分は、近くの無料(だった)遊園地「花やしき」に行くことを楽しみ
    に、初詣はここと決めていました。

    2014年12月27日 23:07 熊野牟 秀太 (16)

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