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ドレフュス大尉の恩赦法案が可決 1900年12月28日

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写真: ドレフュス大尉の恩赦法案が可決 1900年12月28日

写真: 仲見世(浅草)を煉瓦造りに建て替え 1885年12月27日

【ドレフュス事件】
1894年のフランスで、フランス陸軍参謀本部勤務のユダヤ人、アルフレド・ドレフュス大尉がスパイ容疑で逮捕された冤罪事件。


【時代背景】
フランス第二帝政期(1852年〜1870年:ナポレオン3世が1851年にクーデターによって議会を解散、新たな憲法を制定した上、国民投票によってフランス皇帝に即位していた時代)の1870年7月19日に起こり、1871年5月10日まで続いた、フランスとプロイセン王国間の戦争である「普仏戦争」。
これは、ドイツ諸邦もプロイセン側に立って参戦した為、独仏戦争とも呼ばれている。

この戦いに敗れたフランスは、莫大な賠償金を課せられ、経済は大きな困難に直面してした。
1882年には金融恐慌が発生し、貯蓄をなくした人々は金融界を牛耳るユダヤ人への憎悪を昂らせた。
保守派と軍部は、ドイツに対する報復と熱狂的な愛国主義を煽り、1880年代後半、ドイツへの復讐を叫ぶブーランジェ将軍が右翼・軍部の支持の下、独裁政権の樹立を図る事件を起こしたが、失敗をしている(ブーランジェ事件)。


【事件の概要】
1894年9月、フランス陸軍情報部は、パリのドイツ駐在武官邸からフランス軍関係者内に対独通牒者がいることを示すメモを入手。フランス陸軍参謀本部は漏洩した情報を知りうる立場にいた人物達の調査を行い、筆跡が似ていることから、参謀本部付きのユダヤ人で、砲兵大尉のアルフレド・ドレフュスを逮捕した。しかし、具体的な証拠は無く、ドレフュスには金銭問題を抱えている様子も、逆に金回りが良くなった等の状況証拠も無い為、当局はこのスパイ事件及びドレフュス逮捕をすぐには公表しなかった。

ところが反ユダヤ系の新聞「自由言論」が、すっぱ抜きでこの件を大々的に報道してしまう。
「ユダヤ人は祖国を裏切る売国奴であり、その売国奴を軍部が庇っている」と論じて、軍部の優柔不断を糾弾した。慌てた軍上層部は、証拠不十分のまま、非公開の軍法会議においてドレフュスに「有罪」の判決を下し、南米仏領ギアナ沖、ディアブル島に終身城塞禁錮とした。


【無罪の主張と真犯人】
ドレフュスは初めから無罪を主張。彼の家族らは、再審を強く求めるとともに真犯人の発見に執念を燃やす。1896年、情報部長に着任したピカール中佐は、ついに真犯人を突き止める。
ハンガリー生まれ、フェルディナン・ヴァルザン・エステルアジ少佐がその真犯人であると。
しかし軍上層部は、軍の権威失墜を恐れてもみ消しを図り、ピカールを脅して左遷、形式的な裁判でエステルアジを「無罪」とし釈放した。


【無罪の名誉回復】
ドレフュスらの再審を求める勢力は「人権擁護同盟」を結成し、正義と真理、自由と平等を唱え、軍国主義批判を展開した。その後、ドレフュスの無実を明らかにする事件(彼の有罪の証拠とが、偽造されたものであることが判明)が続いたため、軍部は世論に押され、やむなく再審の軍法会議を開いた。しかし、ドレフュスの有罪は覆されなかった。

1900年12月28日、大尉の恩赦法案可決。ドレフュスは、時の首相により特赦で釈放される。
その後も無罪を主張し続け、1906年、ようやく無罪判決を勝ち取り名誉を回復した。







海外での、人種や思想への差別的な冤罪事件では「サッコ・ヴァンゼッティ事件」もある。
自分の中では、どうもこの二つの事件が、ごちゃ混ぜになってしまう傾向がある。
この「サッコ・ヴァンゼッティ事件」は、映画「死刑台のメロディ」になっている。
子供の頃に、テレビで放映された際に観たのだが、是非もう一度観たくて、新聞のテレビ欄をしばらく(数年)追いかけていた。

「死刑台のエレベーター」という、紛らわしいタイトルの映画もあって(こちらの方がメジャーらしい)こちらは繰り返し再放送されていたようだが、「死刑台のメロディ」は、その後一度も観ることが出来ないでいる。





写真は、今年の秋に遊びに行ってきた
「フランスのエッフェル塔」






が描かれた、秋田県湯沢市のJR奥羽線は湯沢駅前にある駐車場の壁画。

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